ヨガで心を軽くするためのシンプルな考え方について。
私たちは日々を幸せに楽しく過ごしたいと思っているのに、なぜか、うまくいかないことが続いて苦しいこと、やりづらさ、生きづらさを感じてしまいますよね。
ヨガでは、その苦しみの原因を総称して「クレーシャ」と呼んでいます。
クレーシャがあるからこそ、私たちは苦しむのだと。
そして、クレーシャをなくす方法がヨガですよ!と言えたらいいのですが。。。。
ヨガでは苦しみを完全に無くしましょう!というのではなくて、
「苦しみの原因を知って、それを減らしましょう」と言っています。
このゆるさが私にあっているのかもしれないなと。
古くから伝わるヨガを通して、たくさんの聖者が苦しみを取り除く方法を探したけど、取り除けなかったということです。
この日々の苦しみの総称である「クレーシャ」をよく知るために読んでみてください。
クレーシャとは?
クレーシャとは、私たちの行動や思考を支配している印象的な記憶からつくられる思考パターンで、エゴとか、色眼鏡と例えられるようなことです。
人前で恥をかく経験をすると「もう人前で恥をかきたくない」という思いが、行動を制限するようになるし、「自分が行動しないのは、前に恥をかいたせいだ」と認識しているけれど、日常になっていくと、自分の過去の行動によって行動を制限していることにさえ気づかなくなっている状態です。
コンタクトレンズをつけたばかりの最初は違和感があるけれど、だんだん違和感がなくなって、かけていることすら忘れてしまった状態に近いです。
自分はありのままの世界を見ているつもりが、実は外すことさえ困難な色眼鏡で覆われた世界を見ているのです。
まったく違う色眼鏡(人生の背景や価値観)をかけた人同士が白い壁を見て、「あれは黄色だ」「いやいや、あれはオレンジの水玉模様だ」といっても、永遠に答えにはたどり着来ませんね。
クレーシャ(苦しみの根源)が私たちのマインドをべったりと色眼鏡で覆っている時には、五感もゆがむし、それぞれが見たいように見て、聞きたいように聞いているだけだということに気づかないのです。
このことは、ヨガ・スートラというヨガ哲学を生活に活かすためにまとめられたヨガの教科書にクレーシャ(苦しみの根源5つ)が解説されています。
クレーシャがある限り、真理にはたどり着けませんよ。
心の働きに注意を向けて、しっかりとありのまま観て、対処しましょうよ。
ということ。
5つのクレーシャについて
ヨガ・スートラでは、そもそもの108回の煩悩は、この5つの苦しみの原因から発生したものであると考えられていますので、煩悩が多いなぁと思っている人も役に立つ内容かもしれませんのでぜひ、読んでみてください。
- 無知(アヴィディヤー)無知は、他の全ての煩悩の原因。 私たちの苦しみの全ては、間違った妄念によって作り出されているということ。
- 自我意識(アスミター) 私を「私」だと勘違いしていること。
プルシャ(真我)とプラクリティ(物質世界を作り出すもの)を同一だと勘違いすること。 - 愛着(ラーガ)渇望を呼ぶ快楽・愛着。好きと思うこと。
- 嫌悪(ドゥベーシャ)苦痛の記憶に対する反発の感情。嫌いと思うこと。
- 死への恐怖(アビニヴェーシャ) 生に対する執着。失うことの恐怖。
それでは、1つずつ詳しく見ていきましょう。
1つ目の無知(アヴィディヤー)は、ただ「何も知らない」ということを意味するものではありません。無知は、思い込みや妄想の中にいるのにそこに気が付かず、勘違いの正義の中で生き続けること。ありのままを見れない状態であることです。
そして、それは全ての苦しみの根源であると考えられていて、無知以外の4つの煩悩は、無知によって生み出されたものであり、無知、勘違いこそが苦しみそのものの始まりです。
ヨガ哲学では、私たちの心の中の苦しみや恐怖心は幻想にすぎないと考えます。
インドでは、無知を暗闇の蛇に例えて話されます。
夜の草むらを歩くのは怖いと思っている時には「危険が現れるのではないか?」と思って常にビクビクしてしまいますよね。
その状態で道に落ちているロープを見ると、恐怖心のあまりロープを蛇だと勘違いして、慌てて走りさってしまいます。
そうすると、そのロープはその人にとって永遠に蛇だと思われたままだということです。
ヨガの実践は、暗い道を照らすためのランプです。 光で照らすことによって、それは蛇ではなくてロープ(勘違い)であることが分かります。
1度ロープだと気が付いた人ならば、見えていた蛇の姿は完全に消えるということが頭でわかりますね。
こんな感じで、ヨガでは正しいものの見方が分かれば、人は苦しまなくても良いと考えています。多くの人は、苦しむべきでないことに苦しみ続けることになります。
私が苦しんでいたころというのは、20代の会社員時代。
職場環境が悪いと思っていたし、心を病んでしまった同僚に対しては転職を勧めていたし、相談を受ければ一緒にグチをこぼしていました。
私自身が自分に向き合うことができてないその20代の頃を振り返ると、会社に入れば会社を悪者にして、いざ、転職活動をはじめたら、周りの環境に原因を探して、転職という別の道すらも拒んでいたように思います。
「私が仕事を辞めたら他の人が困る」
「不景気だから今より条件のいい会社はない」
「大学に行ってない学歴だから転職できない」
「充分な貯金ができるまでは安定収入を失いたくない」
「安く航空券を手に入れたいから辞められない」など、どんどん出てくる。
こうやって、転職できない理由を自分の外に探し続けているので、何も解決策はありませんでした。 永遠と苦しい仕事を辞めることができなかったし、会社に入ればイヤイヤ仕事をしながら、辞める辞めるとグチをこぼす、なかなかやめない人(やめるやめる詐欺)を何年も繰り返していました。
自分の今の生き方(働き方)が苦しいのであれば、自分自身に100%向き合って、改善する方法を見つけないといけないんです。いつまでたっても自分以外の外に向かって原因を探し続けて、苦しみを手放せなくなっていきます。
私はヨガの実践を通して、根本的な原因を自分の中に見つけ出し、問題だと思ったことが、問題ではなく、ただ、自分が変化する方法を選び、行動すればいいだけの話でした。
具体的にいうと、仕事以外のコミュニティーへ積極的に参加し、自分に合うこと、自分が心地よくいられる場所へ出向いていきました。結果、今の夫に出会い、結婚、妊娠、出産と、退職をして、自分がしがみついていた「社会人像」を手放すことができています。
結局のところ、「会社」や「会社員としての〇〇」などは、自分が勝手に作り出した幻想で、そこに見合わない自分を無理して合わせたり、他の人に自分の世界観を押し付けていただけでした。
「無知」で過ごした会社員時代にもっと早く気がついていたら、、、、とまた妄想することなく、ありのまま、今ある環境を大切に生きようと思っています。
2つ目の自我意識(アスミター)とは、「私」という概念によって人は「自分自身」に執着してしまって、多くの苦悩を生み出すことを言います。ヨガ哲学では、この「私である」という概念さえも無知(勘違い)の一部であると考えられていて、「私」に対しての執着が強いからこそ、私が思い通りにならないと大きな失望を感じたりします。
例えば、本当は頑張りたいところで頑張れない自分が許せなくなってしまうこともあります。だけど、心も私の本質ではなくて、私がこの物質世界を人間として生きるためのツールにすぎないという考え方です。
「仕事ができる人」でありたいのに、ミスばかり続いちゃうとか。
「彼に大切に思われる人」でありたいのに、私が思っていることと違う考えの彼にイライラしたりね。彼がやってほしいことをやってくれないとかね。
この身体も、心も、快適な状態であれば幸せだけど、たとえ思い通りにならなかったとしても悲しまないように、ヨガでは客観性を育てていく100%自分と向き合う時間になります。
次のラーガとその次のドウベーシャは、「好き、嫌い」の感情のことです。
ラーガとは、執着と組み合わさった愛、もしくは快楽のことです。何かを愛する感情は、本来ポジティブで美しいものだけど、1度得た「喜びに執着心」を抱いてしまうと、それが大きな苦悩の原因となってしまいます。
例えば、仕事を頑張った後にご美でポテチを1袋買って食べたら、とても美味しかったという記憶が心の中に残ります。そうすると、大変だと思ったとき、疲れたとき、ストレスが溜まる度に、ポテチを1袋食べる習慣ができてしまいます。
快楽には依存しやすく、最初はストレス解消に楽しんでいただけだったのが、なくてはならなものになってしまうのです。同じように買い物でも、恋愛でも、ヨガの練習でも、瞬間的に快楽を得ることができると、どうしても依存心が育ってしまいます。
「好き」という感情は本来幸せなもののはずですが、そこに執着心を抱きすぎないように注意できるといいですね。
そして、私たちは「生理的に苦手」という言葉を使うこともありますが、実は「嫌い」という感情も自然に発生するものではありません。嫌悪(ドウベーシャ)は、「嫌い」という感情は、過去に感じた苦痛が原因で生まれると考えられています。
行動が遅い人を見ると生理的にイライラしてしまって、同僚の中に仕事の遅い人がいると嫌悪感を抱く人がいるとします。
過剰に「のろま」に対して不快な感情を抱くのは、実は幼少期に原因があるかもしれないということです。例えば、子供の時に母親から頻繁に「早くしなさい!」と怒られていたら、「テキパキと動かないと怒られる。のろまは悪だ。」という思い込みが心の中に育っていき、染みついてしまっているかもしれません。
世の中の全てには、良い部分と悪い部分があってもいいのですが、ある対象に対して自分が過剰に嫌悪感を抱いてしまうのであれば、その原因を考えてみるのも良い方法だと思います。
好き嫌い、良い悪いのフィルターをゆるゆるにして、今よりも沢山のものを受け入れられるようになると、もっと心が軽くなるかもしれませんよ。
例えば人間関係でも、「この人は時間にルーズ」「この人は汗っかき」「この人は太っている」「この人はポジティブすぎる」「この人はおせっかい」と、自分の苦手な部分ばかりに意識が向いていると、なかなか気の合う人を探すのも大変ですよね。
友達くらいの関係なら自分で選択できますが、職場の同僚が苦手な人ばかりだと大変だし、生きづらいと感じるはず。毎日、嫌いな人ばかりと会わなくてはいけないと、ストレスが溜まるしね。
まずは、自分の「嫌い」という感情に向き合ってみて、手放せるものは手放していくことで、もっと楽しく過ごせるようになりますよ。
死への恐怖(アビニヴェーシャ) 生に対する執着のこと。失うことへの恐怖。
ヨガでは、死についても深く考えます。ヨガ哲学が生まれた時代は、情報も手段も少ない頃なので今よりもずっと死が身近なものであり、どんな高尚な聖者であっても死への恐怖はかんたんに手放せないことだと考えられていました。
そのため、死への恐怖もドウベーシャと同じように、過去の苦痛の恐怖から生まれると考えられています。
ほとんどの人は、幼少期から死への恐怖を抱いて生きていますよね。
まだ身近に死を感じたことのない子供でさえ死を怖いと思うのはなぜでしょうか?
それは、前世の記憶が残っているからだと考えられていて、前世で身体を離れる時に病気などで痛みを感じたり、その人生への執着から離れたくないと苦しんだり、周りの人との離別が耐え難い悲しみだったんだとしています。
その記憶が次の身体に生まれ変わっても残ってしまっているのだと考えられています。
死への恐怖は、もう少し歳を取ったり、大きな病気や怪我をしたときに湧いてくるかもしれませんね。身近に感じるために、「失いたくないこと」で自分の中を深堀していくと気づきがあると思います。
まとめ
ここに書いた全てのクレーシャ(苦しみの根源)は無知、つまり真実が見えていないことで生まれてしまうということがふんわりわかったかと思います。
目の前の苦しみの原因を全て「自分の思い込み」と考えるのは難しいことですが、全てをとりのぞく!と考えるよりも、少しずつ自分の心と向き合う時間をとって、気づいたところから手放すことを繰り返します。
ヨガを練習していると、自分の考え方だけで解消される悩みが沢山あることに気が付くことができます。
ポーズの練習では、なかなかできないポーズが出てきて悔しくて、無理して見栄張って怪我をする人もいます。
ポーズでいろんなポーズをやってみた時の、呼吸のしづらさや、バランスが取れずにぐらぐらすることに気づいたら「楽に心地よく立てるために練習」します。完成形と「私」のギャップを測ることではなく、「今はこんな感じか」「今はここで心地いいかな」とその時々を味わうことでマインドがついてきます。
私は、3食ポテチを食べても平気でしたが、大好きなポテチへの執着を手放し、ポテチばかりドカ食いする生活を改善できました。
私は、有給休暇や社員割引が効く会社員の福利厚生を手放し、豊かな暮らしを提案するカフェで楽しく仕事に向き合っています。
私は、家庭を望んでいない元カレがなんで振り向いてくれないのかという執着を手放し、今の夫と出会い幸せに暮らしています。
私は、38歳の時に足の関節症であることがわかり、60歳まで歩けるかわからないと診断された時も、その歩けなくなる日が来るまでたくさん足を使おうと思っただけでした。
私は、ずっと健康でいたいという「私」を手放し、歩けなくなる悲しい未来ばかり心配したり、そこにフォーカスすることを既にやめています。
ヨガをしてクレーシャをなるべく減らす生活を続けているからこそです。
歩けなくなる日も、歩けなくなっても、きっとヨガの指導をして、健康な足づくりの講座や学びをやめません。
今はまだ小さい子供たちとたくさん動いて、今、今日も、起きれたことに喜びを感じて、また明日、いいことがあればいいなと感謝しながら眠りにつきます。
長くなりました。。。。ね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。